元バレリーナで現在は映画・ドラマに出演し、女優として活動中の草刈民代さん。
草刈民代さんは幼い頃からバレエに目覚め、そこからの人生はバレエ漬けだったことでも有名です。
今回は草刈民代さんのバレエ漬けだった生い立ちについて掘り下げていこうと思います。
草刈民代の生い立ちはバレエ一筋だった…
裕福な実家に生まれる
草刈民代さんは裕福な家庭で生まれ育たったため、それが後のバレエ人生に役立ったとも言われています。
1965年5月10日生まれで東京都新宿区で生まれた草刈民代さんは、父親が印刷会社「中央精版印刷」の社長・草刈龍平さんであり、父方の祖父も同じ会社の元社長でした。
父親・祖父が社長だったということだけでも十分に裕福そうですが、「中央精版印刷」は1997年からの儲け総額が45億以上だったとも言われています。
バレエ界では「裕福な家庭で生まれたことも実力の一つ」であると言われているそうで、草刈民代さんは生まれながらに大きなハンデを持つことになります。
バレエを始めた頃から全力投球
8歳の頃からバレエに目覚めた草刈民代さんは、始めた頃からバレエの練習への熱量が半端なかったそうです。
バレエに目覚めたきっかけは、1972年に行われた札幌五輪でフィギュアスケート選手・ジャネット・リン選手の演技を見て、「自分も踊ってみたい」と感じたそうです。
その半年後に、習い事としてバレエを始め、国内外で活躍する数多くの優秀なバレエ・ダンサーを輩出していると言われる「小林紀子バレエアカデミー」の生徒となります。
草刈民代さんは習い始めた当初から絶対にプロになると決め、台風で学校が休校となった日も習い事には通ったそうです。
人が休んでいるときでも練習するというプロ意識は、この頃から既に高かったのでしょう。
スパルタ練習エピソードや高校中退理由がヤバい
中学時代のスパルタ練習エピソード
草刈民代さんの中学時代は、バレエの練習がきつくかなり肉体的に追い込まれていたようです。
川村小学校から内部進学し川村中学校へ通うことになった草刈民代さんは、同時に橘バレエ学校にも通うこととなります。
橘バレエ学校は、1950年設立の伝統あるバレエ教室とも知られ、プロを目指す方なども指導しています。
そのため、練習もかなりハードで深夜までレッスンがあった日もあったそうです。
学校とバレエ教室の両立で板挟みになった草刈民代さんは、バレエの練習の次の日は欠席もしくは、出席しても授業中は良く寝ていたようです。
高校中退の理由がヤバい
草刈民代さんは中高一貫校に通っていたのにも関わらず、バレエ一筋で今後の人生を歩んでいきたいと考えていたため、高校を中退してしまいます。
プロのバレリーナを目指し練習に打ち込んでいた草刈民代さんでしたが、中学から高校に進学する頃には更に遅刻・欠席がエスカレートし、親が何度も学校に呼び出されるといった始末になったようです。
また、同じ時期には「バレリーナになりたいのに高校に行ってもいいのか」と自分の進路にかなり頭を悩ませていました。
2019年3月に放送された「サワコの朝」でゲスト出演した際は「学校が合わなくて」と学生生活に上手く馴染めなかったことも告白しています。
娘のことが心配になった両親はバレエの先生に相談し、その結果「本気でやるなら私が預かる」という言葉をそのバレエの先生は返してくれたようです。
そして、遂に父親が高校を辞めてもいい許可を出してくれたのをきっかけに、入学して1カ月目で高校を中退します。
その後、牧阿佐美バレエ団に入団しバレエ一筋になった草刈民代さんは、眠っていた才能をメキメキの伸ばすことになっていくのでした。
今回の記事のまとめ
今回は元・バレリーナで女優の草刈民代さんのバレエ漬け生い立ちについて調査していきました。
始めた頃からプロのバレリーナになると決心し、高校中退といった大きな決断をしました。
しかし、その後の人生も自分の信念を曲げることなくプロのバレリーナになることを現実化させます。
これだけ1つの物事に情熱をかけられる人は本当に尊敬できますよね。
バレリーナ引退後も女優として活躍し続ける草刈民代さんをこれからも応援していきたいと思います。